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江戸城は室町時代に太田道灌によって築かれた。徳川家康によって改築され、江戸幕府成立後は天下普請によって大幅に拡張。周囲16キロもの総構えを擁する大城郭となった。
江戸城は室町時代(1457)に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌(おおたどうかん)によって築かれたとされる。道灌亡き後、上杉氏の支配下に置かれるが、のち北条氏の支配に変わり、豊臣秀吉の小田原征伐後に徳川家康が駿府より移封(1590)され城の改築が始まる。
転封より13年後の慶長8年(1603)征夷大将軍に任じられた徳川家康は江戸に幕府を開くとともに、天下人の居城として本格的な改築、いわゆる天下普請(大名に命令して工事をさせる)を始める。
慶長・元和・寛永・万治と家康没後も秀忠・家光・家綱と足かけ4代57年に渡り天下普請が続けられ、本丸・二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の本城を外堀と神田川で囲む周囲16キロもの総構えを擁する大城郭に仕上がった。
ちなみに、慶長・元和・寛永の普請時にはそれぞれ天守は造営されたが、明暦の大火(1657)で寛永天守の焼失後は再建されず、以後は天守台のみが残されている。
周囲16キロということは、その直径は約5キロ。現代でいうと皇居から新宿までの距離に相当する。現在でも内堀の一周は約5キロもあり、幕府の威信をかけた大城郭であることを実感できる人気のマラソン周回コースになっている。
天下普請完了から約300年、江戸城は新政府軍に明け渡され東京城(とうけいじょう)と名を変える。明治天皇が京都から行幸した後は皇城、明治宮殿が造営され宮城(きゅうじょう)と称され、戦後になって皇居と改称された。
太田道灌から始まり560年。江戸幕府開府から明治・大正・昭和、そして平成に至る400年もの年月。日本の政治経済の中心として江戸城は存在しているのである。
江戸城の話から少々脱線するが、そもそも江戸幕府(徳川将軍家)はどれほどの力をもっていたのであろうか。その指標として「石高」という観点から考察してみる。
現代では経済の根幹は貨幣によって成り立っているが、江戸時代においては、その役割を「米」が担っていた。収入・支出の財力や、養える兵力等、すべての価値基準は石高(米の生産力)によって表されていたのである。
この石高には表高と内高があり、表高というのは額面上の石高のことで、江戸初期の検地によって設定されたもの。大名の格式や軍役(参勤交代・手伝普請)の算定基準となっていた。
対して内高というのは、実際の石高のことで、大名が領民に課す年貢の算定基準となっていた。つまり、表高よりも内高が高いほど収入があり、かつ費用負担を減少できることを意味していた。
幕末時、全国の石高(表高)は約3,000万石であった。その内、幕府直轄地(天領)の総石高は、大名への預地を含め約400万石。これに旗本(幕府直参の家来)分の400万石を合わせれば、実効支配の及ぶ石高は800万石にもなった。
ちなみに一万石当たりの動員可能兵力はというと、いくつかの算定基準があるが、戦国時代において約300人ほどといわれている。
単純計算ではあるが、幕府天領400万石×300人=12万、旗本分12万(実際の人数はもっと少ないが)も加えると、24万もの兵力を有する経済力を持っていたのである。
対する倒幕の中心藩であった薩長土肥(薩摩藩87万石・長州藩98万石・土佐藩50万石・肥前佐賀藩89万石:すべて外様)を合わせた表高は約324万石(計算上の兵力97,200人)であり、幕府直轄地の石高にも及ばなかった。
ちなみに、他の主な大名の石高(表高)はというと…
御三家である尾張藩90万石・紀州藩60万石・水戸藩30万石を筆頭に、主な親藩(徳川の親戚)は、福井藩33万石・会津藩23万石・松江藩29万石・前橋藩21万石・高松藩20万石・伊予松山藩15万石・桑名藩14万石・津山藩10万石など。
譜代(関ヶ原以前からの徳川の家臣)では、彦根藩20万石・姫路藩21万石・鶴岡22万石・小倉藩21万石・高田藩15万石・郡山藩15万石・忍藩14万石・佐倉藩13万石・大垣藩13万石・中津藩12万石・小田原藩12万石・肥後福山藩11万石・淀藩11万石・棚倉藩11万石・小浜藩10万石など。
外様(関ヶ原以後に徳川に従った大名)では、加賀藩130万石を筆頭に、仙台藩100万石、熊本藩78万石・福岡藩57万石・岡山藩49万石・広島藩48万石・徳島藩44万石・鳥取藩43万石・久留米藩37万石・津藩36万石・久保田藩33万石・米沢藩33万石・盛岡藩32万石・弘前29万石・富山16万石・柳河藩15万石・二本松13万石・新発田14万石・松代12万石・宇和島10万石など。
以上の数字から考察しても、江戸幕府がいかに大きな力を有していたかが理解できる。国内の全石高(表高)の26%を支配する日本一の大大名。それが徳川将軍家だったのである。
江戸城はその存在そのものが徳川氏支配の象徴であった。薩長土肥(新政府軍)が倒幕を果たす、いわゆる徳川の天下を終わらせ、名実ともに新しい世の中を創るためには、武力をもって江戸城を攻略する必要があったのである。
あくまでも計算上のことではあるが、経済力・軍事力からみて、薩長土肥が束でかかっても討幕は不可能なはず…なのだが、それでも倒幕が成功した最たる要因は、錦の御旗(錦旗)の存在だといえる。
本来、錦の御旗というのは天皇より下賜されるものであるが、この時に新政府軍に掲げられた錦の御旗は公卿・岩倉具視による偽物(いわゆる贋作)であるといわれている。
戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍は新政府軍の三倍にも及ぶ兵力を擁していたが、錦旗が翻るのを見た幕軍は敗走。譜代大名である淀藩の裏切りもあり、大坂城へ退却する。
その段階でも幕府側には難攻不落の大坂城が残っていたが、将軍徳川慶喜自身が戦わずして大阪より船で江戸に脱出。自ら上野寛永寺に謹慎すると、新政府軍に恭順の意を示したのである。
これで大勢は決した。大坂城は戦わずして新政府軍に開城。御三家である尾張藩までも新政府側に回り、東海道の諸藩も新政府軍に恭順。新政府軍はさしたる抵抗もなく、京都から1ヶ月で江戸に達し、江戸城を包囲する。
しかし江戸城総攻撃の直前、大総督府下参謀西郷隆盛と陸軍総裁勝海舟との会談によって江戸城無血開城が決定。江戸城もまた戦うことなく開城する。
こうして幕府は絶対負けることのない戦に負け、徳川260年の歴史は幕を下ろしたのである。
しかし、総大将自身が兵を残して離脱。残された者たちの落胆ぶりはいかほどであったか。幼い頃より英邁さが知られ、「権現様(徳川家康)の再来」とまで称えられた徳川慶喜に何があったのであろうか。
日本では古来より、錦旗に弓を引く者は朝敵、いわゆる賊軍とされる。必ずしも朝敵とされた側が敗北したわけではないが、後世まで朝敵という悪名のレッテルが残る。
諸説あるが、一説には尊王思想である水戸藩出身であり、朝敵となることを恐れた。また日本が内乱状態になり、諸外国の介入を受けることを憂慮したためともいわれている。
どちらにしても、結果として徳川幕府より明治新政府への政権移譲が短期間で完了し、江戸・大阪・京都の大都市が燃えることなく存続できたことは疑う余地もない。
その後の慶喜であるが、寛永寺から水戸に移り、さらに駿府(静岡)で謹慎を続け、戊辰戦争が終了した後も静岡に居住し、趣味に没頭する生活を送る。
明治30年に東京に戻り、翌年、皇居にて明治天皇に拝謁するが、かつての江戸城の主が30年後に家臣として江戸城を訪れる心境は幾何であっただろうか。その心境は慶喜自身でしか分からない。
その後、公爵に列せられると貴族院議員として政治に復帰するが、明治43年隠居。大正2年76歳でこの世を去った。前半生は権力者として振舞うが、後半生は一転して隠遁。引き際の潔い趣味に生きた人生であった。
(2017.7 更新)
住所 | 東京都千代田区千代田1-1 | TEL | 03-5223-8071 [宮内庁管理部管理課参観係] |
URL | https://sankan.kunaicho.go.jp/ guide/koukyo.html [宮内庁 皇居] |
見学時間 | 皇居東御苑 大手門・平川門・桔梗門から入出門 9:00~17:00 [春・秋 16:30 冬 16:00] |
駐車場 | - | 定休日 | 月曜・金曜・年末年始(12月28日~1月3日) |