温泉新選組 > 道南の温泉 > 湯の川温泉 > 土方歳三最後の地(一本木関門跡)
函館駅から北東へ約500mほどの場所に「土方歳三 最期の地」という石碑がある。石碑は小さな公園(若松緑地)の中にあり、その公園の片隅に土方歳三が戦死したとされる一本木関門を再現している。
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石碑は若松緑地の中にひっそりと建てられ、白黒の小さな肖像写真がどことなく哀しみをさそう。訪れる人も少ないだろう…と思っていたが、死後約150年経った今でも献花が後を絶たない。
実際の一本木関門は別の場所にあったとの話もあるが、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」で描かれた土方歳三の生き様に強く惹かれる私としては、かなり感傷的になってしまう場所である。
土方歳三は武州多摩の農民出身ながら、近藤勇、沖田総司らとともに天然理心流の剣技を修め、幕府の浪士組結成に参加。幕末の京の治安維持に活躍し、身内にも厳しい態度で接した姿から、新選組「鬼の副長」として敵にも味方にも恐れられた人物である。
鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争では、負傷した近藤勇にかわり新選組の指揮をとり、大阪から海路江戸に戻った後は、甲州、流山、宇都宮、会津と各地で新政府軍と戦い続け、会津陥落後に仙台で榎本武揚と合流。そして最後の戦場(死に場所)を求め、箱館に渡る。
新政府軍が蝦夷地に攻め込んだ際は、蝦夷共和国(旧幕府軍)陸軍奉行並として二股口へ一隊を率いて出撃。幾重もの防御陣地を構築し、数で勝る新政府軍を相手に激しい銃撃戦を展開。箱館への進攻を食い止めていた。
だが、陸軍奉行大鳥圭介が守備する木古内・矢不来が突破され、退路を絶たれる前に五稜郭へと撤収。さらに五稜郭を見下ろす箱館山をも占領され、弁天台場に孤立した旧新選組の救出と、箱館の町を奪還すべく、明治2年5月11日に五稜郭から最後の出撃をした。
土方の陣頭指揮により旧幕府軍は一時態勢を整えるが、土方は一本木関門付近で狙撃に遭い、馬上にて腹部に被弾。戦死したと伝えられる。
享年35(満34歳)。
武士に対して強烈な憧憬(あこがれ)と理想を抱いていた武州多摩の農民が、動乱の京で夢であった武士となり、この時代のどんな武士よりも武士らしく戦場を駆け抜け、そして武士らしく激しく散っていった…
刀で斬られるのではなく、銃撃で最後を迎える様が、刀をふるうことで生きてきた土方にとって皮肉といえば皮肉ともいえる。しかし土方は鳥羽伏見の戦い以後、刀の時代の終焉を悟り、武士の象徴でもある髷(まげ)を切っているのである。
そして旧幕府軍の中では銃撃中心の近代戦術に対して最も理解と実践を重ね、その指揮に際してはフランスから派遣された士官から、フランス陸軍の士官が務まると評される程であった。
この箱館戦争で戦死した旧幕府軍の幹部は土方歳三ただひとり。
京都以来、数々の戦に散った新選組の同志のため。武士として切腹の機会すら奪われ、板橋で斬首された新選組局長近藤勇、労咳という病に倒れた沖田総司、二人の盟友のため。
武州の民らしい徳川に対する「親愛」と武士に引き上げてくれた「義」、その武士としての「道理」、これまで貫いてきた己の「信念」
何よりも、その「信念」のために殺めた多くの犠牲者のことを考えると、生き延びて「降伏」という二文字は土方歳三の頭には無かったのではないだろうか。
この時代の武士の根底にある「士道」
すなわち「主君のために命を捧げる」愚直なまでの「侍」の生き方。本来主君を持たない新選組にとって「士道」は存在しないが、武士以上に武士らしく生きるためには「士道」とは憧れと同時に必要不可欠なものであった。
「主君のために命を捧げる」その言葉が新選組の「士道」であると同時に、その言葉そのものが「主君」でもあった。パラドックス(矛盾)ではあるが、司馬遼太郎の「燃えよ剣」が大好きな私にとって強烈に熱い感情がこみ上げてくる言葉である。
土方歳三(享年35・満34歳)しかり、坂本龍馬(享年34・満33歳)しかり、奇しくも同学年の二人。現代ではまだまだ若い年齢なのに、人間としてとびきり成熟している感じがする。
幕末・明治維新というのは時代そのものが沸騰した熱い時代であった。たった150年ほど前の出来事なのだが、現代とはまるで真逆、空気そのものが異なる時代であったことを思わずにはいられない。
(2017.11 更新)
住所 | 北海道函館市若松町33 | TEL | |
URL | 開館時間 | ||
駐車場 | なし | 定休日 |